リバティ社の歴史

設立当初

リバティ設立当初

  アーサー・ラセンビィ・リバティは、1843年、 バッキンガムシャーのチェシャムで生まれました。
ロンドンのケンジントンで国際博覧会が開かれた1862年、 リージェント・ストリートのファーマーズ・ アンド・ロジャーズ商会に入社。
およそ10年間の勤務を経て、 1874年、家庭用品やファッションのスタイルを 変えられるとの信念にもとづき、 自らビジネスを始めることを決意しました。

  義父から2000ポンドの資金を借り入れたアーサー・リバティは、 ファーマーズ・アンド・ロジャーズ商会の向かいの リージェント・ストリート218番地に2分の1店舗分の スペースを賃借しました。
当時リバティが雇うことができたのは、16歳の少女と日本人の少年だけ。
しかし開店の日、ファーマーズ・アンド・ロジャーズ商会時代の同僚だった ウィリアム・ジャッドも、リバティの新事業に参加しようと駆けつけたのです。

アーサー・ラセンビィ・リバティ

  1875年にオープンした店舗は、日本や東洋の装飾品、 ファブリック、美術品などを販売していました。
18ヶ月も経たないうちに、リバティは借金を返済し、 リージェント・ストリート218番地の店舗の残り半分の スペースも手に入れました。
そして事業が拡大するにつれ、 近隣の物件も買い入れられ、店舗に追加されていったのです。

  1885年にはリージェント・ストリート 142−4番地の物件を取得し、 カーペットや調度品に対する需要に応えるための 店舗をオープン。
この店舗の地下は“イースタン・バザール”と呼ばれ、 “室内装飾品”とされるあらゆる物が揃っていました。
リバティはこの店を、 生まれ育った地にちなんでチェシャム・ハウスと名づけました。

  リバティは、創業当初から、日本の繊細な製品は、 質が低下してしまうことに気づいていました。
そこでジャワやインド、インドネシア、ペルシャなど、 世界の様々な地域から製品の調達を開始しました。 しかし東洋のファブリックは、仕立屋や家具商が扱うには繊細すぎたため、 英国の染物屋やメーカーを捜し、 東洋風のファブリックの生産を試みました。
リバティは、普通の人々に対しても、 美しいものを手に入れるチャンスを提供したいと考えていたのです。
リバティ店はロンドンでも最もおしゃれな店舗になり、 そのファブリックは衣類と調度品の両方に使用されるようになりました。
顧客には外国人も多く、ロセッティやレイトン、 バーン-ジョーンズなど、ラファエル前派に属する有名なアーチストもいました。
やがてリバティに対する需要が供給を上回るようになると、 リバティは、既製のファブリックを輸入して、 それを英国で無地染めもしくは、 プリントするという方法を採用しました。
このために、スタフォードシャー州リークのトーマス・ワードルと、 サリー州マートン・アビーのエドマンド・リトラーという 2社の捺染会社の技術を活用しました。

  1890年代には、リバティは、 すべての生産業務をリトラーズの捺染工場に依頼するようになりました。
そして、リトラーズが手作業で生産したブロック捺染製品の高い品質は、 “リバティ・アート・ファブリック”の象徴となりました。
1881年、リバティの競争相手だったウィリアム・モリスが、 ウォンドル川にあった下流部門の捺染工場をリバティから購入しました。
このときリバティはこう言ったと伝えられています。
「私たちは、下流の汚れた水をモリスに回したのです。」
1904年には、リバティがマートンの捺染工場を買収しました。

リージェント・ストリートの店舗

  1884年、 リバティは、エドワード・ウィリアム・ゴッドウィン(1833−86年)の指揮のもと、 リージェント・ストリートの店舗に服飾部門を開設しました。
ゴッドウィンは有名な建築家で、 芸術のあらゆる側面に価値があると考えていました。
彼は、1882年にCostume Societyが設立されたときの 創立者の一人でもありました。
パリのファッションに対抗して社内で衣料品をデザインするにあたり、 彼のビジョンはリバティのビジョンをそのまま反映していました。

  ゴッドウィンは1886年に死去しましたが、 彼のインスピレーションはその後も社内全体で生き続けました。
彼の死は、1882年のロセッティの死、 1896年のウィリアム・モリスの死、 そしてホイッスラーのパリへの移住とともに、 耽美主義運動の終わりを示していました。
そして新たな動きも生まれていました。 リバティはその動きの流れの中で、中心的役割を果たすことになります。